2014年05月01日

日本の正体U〜クニの始まり(4)

長らく信じられてきた縄文時代の時間軸、そして、弥生時代が始まったとされる時期、こうした教科書に記載されている「半決定事項」が、近年の新たな発見によって次々に疑問視されるようになっています。

縄文期はもっと早く始まっていたのではないか?
弥生時代の草創期は三千年前ではないか?
コメは五千年前に日本に来ていたのでは?


こうした問題も、地道に研究なさっておられる専門家達が、時間をかけて解いていくでしょう。

いずれにしましても、「結論を出すのは早い」
そういう事でしょうね。
歴史は今までに発見された証拠から推論するしかないのであり、『未発見の証拠』がこれからも出てくるでしょうから、「こうだ!」と断定できることはあまりないと考えるのがよいかと思います。

自分は歴史学者ではなく、市井研究者でもなく、好事家でさえもありません。ロクな知識もない一般の日本人です。しかし、そういう者の視点だからこそ面白いモノが書けるだろうと思い、これを書いています。



【三】”日本人”形成期
クニの時代〜イエの時代〜個の時代 E


■縄文時代とは何だったのか■

●”原始人”ではない暮らし

後世の農耕民よりも豊かな食生活

作物の収穫に依存する農業は、旧石器時代人からみれば安定した豊かな暮らしを約束する夢の様なシステムであって、実際に農業革命が文明を開花させたのは事実でしょう。

しかし、いざ「飢饉」になると、作物へ依存度が高いゆえに、食べていく手段が皆無になり悲惨な事態を招く。飢饉の悲惨さは後年の歴史が証明するところです。

本格的な水稲耕作が始まる前の縄文人はどうだったのか。彼らは狩猟・採集・漁撈によって食べるものを得ていました。

これを「原始的」とみなすべきかというと、まったく違います。非常に合理的で、「グルメな生活」をしていたのですよ。

自分は、縄文人こそバランスのとれた食生活をしていた本物の美食家であったと考えています。


学者の推定によれば、縄文時代の日本列島の人口は多い時期でも30〜40万人、少ない時期は10万人以下。先々この数字が変化する可能性は高いにしても、今はこれを信じるしかないでしょう。

この人々が美食家とも目される食生活を確保できたのは、煮炊きができる「縄文土器」を発明したからです。これによって、旧石器人が見向きもしなかった動植物を食料として利用できるようになったのです。

その代表が、海辺にある貝類。
当時は無尽蔵といってよいくらいの貝類がゴロゴロ存在していたでしょうけども、「ボイル」という手段がなければ、たんなる石ころと同じです。

極めて優れた栄養素を含有する貝類が、縄文人にとってどれほど大切な食料であったかは、今も各地に残る縄文貝塚にある夥しい数の化石からも分かります。

食べていた貝の種類はおよそ350種以上。

原始的な栽培もしていたと思われる栗、それにシイ、ブナなどの木の実やヤマイモなどの山菜はアク抜きしなくても食用可能でしたが、土器による水晒しアク抜きによってカシ類や一部の山菜が食用可能になり、さらにボイルによってナラ類、トチ、クヌギ、カシワなども食べられるようになります。

なによりも、簡単に入手できるドングリが食べられるようになった事が大きな変革をもたらしたであろうと容易に想像できます。

土器製作法の発見=食の多様化・安定化

これが、洞窟暮らしから脱して「イエ」に住むようになったきっかけになったのではないか。

形成しやすい粘土を使って作った、食料の貯蔵庫にする「穴」や「容器」を持っていて、ある時その食料を「焼こうとした」のかも知れません。
加熱によって粘土が変性し、水を通さない器になっていることに気づく。
このへんが土器の始まりでしょうね。

先ほどの貝類数百種類に加えて、植物性の食料がおよそ60種類。
元々の主食であった哺乳動物は60種以上。
鳥類が約40種。
さらに、魚類は70種以上。

魚類で目につくのは「フグ」の多さです。
人を殺傷する猛毒魚であるのに、執拗なくらいフグを食べ続けておるんですね。このへんにも「美味を理解していた食の求道者」たる気配を感じます。

もちろん食料はこれだけではなく、見つかっていない(遺存していない)ものを含めれば、この2〜3倍以上になるでしょう。

こうした食料の多様性が、結果的にシカやイノシシといった貴重で「大好物」であった資源を、むやみに減らさない「保護」になっています。

それはつまり、「何か一つに頼らない」という意味であり、作物の収穫のみに頼るしかない農耕民よりも豊かであったと言える側面なのです。

昆虫や土に至るまで、好き嫌いすることなく何でも食べていたのが縄文人で、こうした「偏りのなさ」も資源保護に繋がっていました。

さらに言えば、こうした食料は「完全に天然物」ですので、それぞれに「旬」が決まっていて、必然的に、最も美味しい季節に食べる事になります。

季節ごとに出現したり消滅したりをする食料資源を「まわす」ことで、年間を通じて食べ物の不足から解消されるとともに、「美味しいもの」を食べる結果になっていたのですよ。

こうした「バランス感覚」があったからこそ、縄文時代は異様なほど長く続いたのではないでしょうか。

【リサイクルする持続可能な文明】ですな。
それが「100世紀」というあり得ない数字の意味かも。


原始農業というか、イネ・オオムギ・ソバ・アズキ・ダイズ・アワ・ヒエなども既に栽培されていました。もしかしたら7〜8000年前の水稲の遺構も今後どこかの地域で発見されるかも知れません。


※こうした多様性の副産物というか害というか、縄文人は非常に虫歯が多くて悩んでいたようです。
(抜歯した化石骨が多く見つかっています)
肉食がメインの狩猟採集民であれば、通常は食事が「歯磨き」になるので、あまり虫歯にならない筈ですが、上の様な食性になっていた縄文人は、自然と「炭水化物多め」の生活になっていたのです。このあたりは「やはり日本人の祖先だ」と言うところでしょうか。


・縄文人の「人間性」

哺乳類のほとんど全てを食料にしていた彼らですが、早期に家畜化していた「イヌ」だけは食べていません。
縄文地層から発見されたイヌの化石は、ほぼすべてが「人のように丁寧に埋葬」されたものばかりです。つまり、家族の一員のような存在として扱っていたということです。
イヌを食べるようになるのは、大陸系の弥生文化以降になってからのことです。

縄文式土器とともに縄文人の特性を示しているのが「土偶」です。弥生文化に追われるように消えていき、「縄文最後の地」である東北地方を最終地として消滅している土偶は、まさに縄文のアイデンティティと言えるかも知れません。

前の記事にて「土偶は女性を象徴している」と書きましたし、女性が特別な存在であったのは確実だと思いますが、早期から晩期までの土偶を眺めていて正直思うのは「これはヒトではないだろう」と。

「人間の形に作った人間でないもの」
そういうふうに感じます。
自然に宿る精霊、妖怪・妖精。
ようするに原始信仰ですな。

後年になって仏教が広がったときに、ある種の人々は憑かれたように「仏像」を作り始めた。
仏陀や周辺の人々を形にしたものだが、実は「仏に見えて仏ではない」のが仏像。

そのようなものだった気がします。
まぁ、たかだか千数百年前に造られた(とされる)イースター島のモアイ像でさえも、「何なのかさっぱり分からない」のですから、その数千年前の縄文土偶は、それこそ「縄文人に訊かないとわかる筈がない」ですけどね。


・各地で発見された縄文の環状列石

夏至・冬至を示す環状列石(ストーン・サークル)が見つかっており、太陽の運行によって時間や季節の概念を暮らしに導入していた。「カレンダー」があったのである。


・既に存在していた通貨経済(?)

翡翠の珠を富の象徴にしていたらしいが、各地に広く拡散している点などから、実質的に「通貨」として用いていた可能性も伺える。


・【文字】は本当に無かったのか?

縄文という語の由来になっている縄文式土器の縄目文様は、研究者によって、縄を回転させて描いたものであることが分かりました。

最初期の縄文土器は、土器以前に使っていた容器である樹皮で編んだ籠や獣皮製の袋を模したものと思われ、籠の網目模様をそのまま土器にも描いたのだと考えるのが自然です。

しかし、模様はどんどん複雑化していき、一言では説明できないような形態へと変化しています。

自分は、「これは象形文字ではないのか」と考えることがあります。こうした複雑な文様は、何らかの意思伝達機能を持っていたとしか思えないからです。


・火炎土器などの装飾は何を表現してるのか

刺身の盛り付けルールに見られるように、日本には伝統的に「三、五、七」の数字を重視する文化が今でも残っている。

これはいつから始まったものであろうか。

この原点とも言えそうなものが縄文土器四期あたりに出現している。土器の装飾に「三、五、七」の数を使用しているのである。

初期の縄文土器装飾は「2、4」が通常であったものが、どういう理由から「三、五、七」の数を崇拝するようになったのか。
特に多用されていて、強く崇めていたらしき数字は「三」です。

もしかすると、【鼎】の文化が移入したのものではないでしょうかね。中国大陸からです。




縄文時代は色々な民族が「多数のクニ」を形成し、それぞれのクニが並立していた時代だった

先史時代の地球は「狭かった」という気がします。

様々な交通手段を持つ我々からみた「初期のホモ・サピエンス」は、徒歩しか移動手段がないゆえに世界はとてつもなく広大であった筈だ、と思い込むのが普通です。

しかし我々が想像するよりも遥かに、彼らは広大な世界を自由かつ迅速に移動していたのではないか。少なくとも、南北アメリカを除くアフリカやユーラシアはそうだったと思えます。

数十年、数百年の間に、アフリカから日本列島まで「文化が伝達」する程のスピードがあったということです。もしかしたら、「世界航路」もあったかも知れません。

農業と文明が始まった時期が各地で重なっているあたり、「玉突きのようにあっという間に世界に広がった」と見ることが出来るのですよ。

農業革命は、約8千年前くらいに、世界各地でほぼ同時期に始まったと思います。

水稲が揚子江下流域で始まったのも8千年前くらいであり、それは僅か数百年で縄文の日本にも伝わったと考えます。

そして、稲作農耕で暮らす「クニ」が、日本のどこかにあったと思います。

ただし、それは一つの小さなクニでしかなく、「縄文時代の日本」という括りとは別の話です。


・多民族国家

原日本人である縄文人は、「アイヌ人」、「琉球人」、「本土日本人」という3つの人種の集まりです。
ところが、「本土日本人」というのが問題で、彼らは一つの集団や族ではありません。あらゆる系統の族やその「あいのこ」がバラバラに寄せ集まった【別々の集団】なんです。

感覚的に思っていた「縄文人とはアイヌや琉球人」という考えは少し違うんですね。

アチコチから集まってきた小集団が、特に大きな戦争をするでもなく(小集団なので戦争の概念はない)、かといって融合して大集団になるでもなく(一部には大きな集団もあったでしょう)、バラバラでありながら、極めて「平和」な暮らしを実に数千年も続けていた。

おそらくは先住旧石器人の血を濃く持っていたアイヌ人・琉球人などと混血も進んだ筈で、だんだんに「縄文化」したのでしょう。

縄文の日本に溶け込み縄文化したこの人々は何であるかと言うと、「大陸からの移動してきた人達」ですな。(もちろんアイヌも琉球人も元々は大陸から来たわけですが)


「いつ頃どこから来たのか」
そう思いますが、考えてみるとこれは実に馬鹿げた疑問です。
「数千年、数万年の間中、絶え間なく、それこそ毎年のように来ていた」というのが正解であり、「いつ?」という問題ではないんですよ。

干満によって潮が寄せて引くように、定期的に「訪問者」は来ていたのです。

多くは長江流域や江南地方からでしょうし、北からも南からも、ひょっとすると東からも、実に色々な民族が移住してきたと思います。


そして、数十年に一度、あるいは数百年に一度、まるで津波のような大潮があった。

巨大な波は、いつ、どうして日本に来たのか。

【大陸で大異変が発生したとき】です。



確実に存在したことが分かっている中国最古の王朝は、およそ4千年前ごろに興ったという「殷王朝」です。

しかし、殷は非常に高度な文明を持っておりまして、こうした高度文明が何の「前ぶれ」もなく突然出現するわけがありませんので、その前の王朝である「夏」が存在したのは間違いないでしょう。


ところで、中国の歴代王朝は、その草創期から絶大な権力を握っているのが特徴です。

そうしますと、「王朝交代」がどうなるかです。

絶対的な権威が必要ですから、前の王朝を完膚なきまでに消滅させなきゃいけません。滅ぼした筈の王家が、民衆の支持を集めたりすれば大変なことになるし、権力が弱まるきっかけになるからです。

仮に王家に慈悲をかけて生かしておく(どこかに封ずる)にしても、「王の一族」は皆殺しにしてしまう筈で、通常は前王もその家族も殺されます。

さて、王の一族が黙って殺されるのを待っているかどうかです。
広大な中国では馬を飛ばしてさえも移動には数ヶ月。幸いにして王都にいなかった遠い地の王族が、逃げることもなく、敵が来るのを、殺されるのを、ただ待っているでしょうか?

逃げるでしょうな。
ほとんどの場合。

夏王朝があったとされる場所はここです。
夏の領域


そして殷王朝はここ。
殷の位置



逃げるには朝鮮半島が良さそうな位置ですが、実は海流の関係で日本に行きやすい場所でもあるんですね。

殷の後の「周」にしても、春秋戦後期各国にしても、やはり日本は「亡命先」に適した地であったことでしょう。

つまり、中国で大きな政変とか大戦争とか王朝交代などが起きた時期が「大潮」なのです。

そして中国では、太古から頻繁に王朝が興ては滅びるの繰り返し。

日本列島に、ある程度の「人数」で渡ったのは、王の一族であった蓋然性が高いわけですから、彼らは「文明の結晶」を持って逃げてくる筈です。
縄文日本には無い「色々なもの」です。


こうした「大波・大潮」の最たるものが、殷王家の一族だったのではないでしょうか。

・弥生時代の幕開け(稲作の本格化)の時期と殷が滅亡した時期がほとんど同じであること

・殷の「太陽信仰」が日本の原始宗教や神話とスンナリつながるし、その他にも色々な習慣などが日本に残っているものと似ている

・それまでバラバラの集団(クニ)の寄せ集めながらも平和に暮らしていた縄文人に「大きな変化が起きている」こと

・殷の人々は水稲栽培と「青銅文化」を持ち込んだと思われる。数々の青銅器の中には「剣」もあり、それは「強力な軍隊」を持ち込んだということ

・縄文人に衝撃を与えたのは、既に日本に存在してた稲よりも、青銅器であった

・渡ってきた集団は、「逃亡者」でもあるし、その数が多いわけではないが、王朝の中核であった人々だった筈で、甲骨文字を使いこなす書記官や軍略に長けた軍人も少数だが混ざっていた


彼らと縄文人がどういう関係を持ったのか。
そこが問題ですね。

何度も書きますように、縄文人といっても「一つのまとまった国家の国民」ではありません。

大きく分ければ次の2派でしょう。
「彼らの文明に驚嘆し、崇めるクニ人」
「彼らの武器を恐れて逃げたクニ人」

おそらくは前者を選んだ縄文人が多かった筈。
なぜなら、この時期辺りから「本土系縄文人」は「北東アジア系の人種」に変貌していくからです。

縄文土器の文様や装飾にも「影響」が現れ始めている。

土偶の模様に「入れ墨」のようなものが描写されるようになり、縄文後期から弥生全期間にかけて刺青をしていたと思われる。(穿った見方をすると、王朝亡命者達が支配の目的で身分制度を創設したのでないかとも思われる)


驚くほど高度な殷の青銅器
殷墟出土物


とくに【鼎型】の青銅器を注目されたい。
次の火焔土器との類似点にただならぬ意味を感じざるをえません。
(※鼎は数字の三を意味するものです)

鶏頭冠形の火焔土器




弥生期を象徴する、謎の深い物に「銅鐸」がありますが、祭祀用だとしか思えないこの物体は、殷の青銅器文化の流れをくんでいるとしか思えません。

銅鐸




「それなら、なぜ縄文遺跡から甲骨文字や殷代の青銅器が発見されないのか」

彼らは伝え聞くような除福の大船団とは違い、多くても百人単位の集団でしょう。落ち武者、亡命者、逃亡者だからです。

文字を操る知識人も数人程度だったでしょうし、青銅器製造のシステムも持ち込めなかったかも知れません。
(その後、波状的に大陸から避難して来た人々が、少しずつノウハウを持ち込んで、数百年という年月を経てゼロからの製造工程を完成させたのでしょう。だとすると銅鐸の出現と殷人亡命の時間のズレも説明可能です)

残っていなくて当然でもあるし、位置の特定も出来ないとくれば、最初期銅鐸や甲骨文字が未発見であるにすぎないかも知れません。


忘れてはならない点は、縄文日本は「小さなクニの集合体」であったということ。
どこかのクニに渡来人が関与したとしても、日本全体からすれば「一部で起きた小さな出来事」だった筈です。

日本はあくまでも「縄文人のクニ連合国家」であって、中国大陸からの亡命者集団は「特殊だが小規模な人々」だったのです。


それが変化し始めるのは紀元前200年頃からでしょうね。前漢に朝貢をするようになった「倭人のクニ」が歴史に登場するあたりからです。中国の史書登場、そして日本神話の神々や天皇の時代ですな。

渡来系弥生人(大陸人)の数が爆発的に増加し、縄文人は僻地へ追いやられ数を減らすか、渡来人と混合して行くのです。弥生時代の幕開けというよりも、縄文が終焉する時代です。

長かった縄文時代に終止符を打ち、強固で大きなクニをつくり、「倭人」と呼ばれる集団を生み出した人々。その魁は殷(商人)たちであり、その後に続いたのも中国の民族でしょう。

日本が国家と呼べるものになったのは、それからおよそ1000年後の紀元七世紀のことです。

それまでは、「倭国」を始めとした沢山のクニが互いに群雄割拠しており、なかでも「縄文人のクニ」が多かった筈です。

様々な「ドラマ」があったのは確実なんですが、残念ながら、この時代の正確な記録がまったく残っていません。

倭人、倭国はどうなったのか、邪馬台国とは何なのか、「ヤマト政権」はどうやって誕生したのか。
なにもかも霧の彼方であり、何も分かりません。

ここまで分からないのはちょっと妙な感じで、「本当は国内に正確な記録があるが、古事記や日本書紀に正当性を与えるため闇に葬った」のではないかとさえ思えてきます。

宮内省が頑固に発掘調査を拒む古墳が多すぎるのも奇妙ですしね。この時代になっても、まだ「皇民化教育」を狙おうというアナクロぶりなのでしょうか。


肝心の「国家の始まり」がモヤモヤしたまま21世紀になっても科学とは無縁の水掛け論。
日本人の頭の中に「霧がかかっている」のは、もしかしたらこの時代の霧のせいかも(笑)







先史時代に生きた人々を想う時、いつも目を見張るのは、その「活動範囲」のデカさです。

乗馬などはまだ一部の地域にしかなく、移動手段は徒歩しかないのですが、それにしては余りにもウロウロする範囲が広すぎます。

ユーラシアの中央あたりに旅行した方は分かりましょうが、飛行機時代の我々にとっても「大地は途方も無いくらい広大」なのです。

「こんな馬鹿みたいに広い場所を、歩いて行ける筈がない」と、そう感じてしまうのです。
つまり、「行ってみよう」とか「旅立とう」とかいう考えが浮かぶとは思えんのですな。

なのに「彼ら」は踏破しているんですよ。
大陸の端から端までね。


カギは「航路」だと思います。彼らは優秀な船乗り・航海士だったのかも知れません。

縄文人も、丸木舟とおぼしきもので、列島の色々な離島を征服しています。大島、小笠原、なんと八丈島までイノシシを連れて移住しています。

あるいはとんでもない程「遠い場所」まで行っている可能性もあるでしょうし、その「逆」もあるのでしょう。見当もつかないような遠方から船で日本に来た人々とかね。

現在の我々は無意識に「進化した機械文明への驕り」があって、そのバイアスで過去を見るクセがあるようです。
もしかしたら古代人は今の我々個々人よりも遥かに行動力があり、自然に立ち向かうスキルも上回っていたのかも知れませんよ。








☆「民族」とは☆

皆さんは「ルワンダ虐殺」とか「ユーゴスラビア紛争」をご記憶でしょうか。

詳細はWikipediaでもご覧いただくとして、結論だけを言いますとね、まったく同じ人種の人達が、かつての宗主国(まぁ植民地経営の搾取者ですな)の計略によって強引に分断され、互いに憎しみ合い、争うように仕向けられ、同じ民族が●族と◯族に分かれて殺しあった。

そういう事です。

●族も◯族も、DNA的にまったく同じ人種。
つまり、「民族対立」というのは嘘なんですよ。
【支配のための効果的な手段】が正解。


「被支配民」が同胞意識で固く結ばれていると、強い抵抗を受けてしまう。団結して戦いを挑んでこられると、支配どころかムダな戦争を長引かせてしまうだけ。

なので、団結させなければよい。
連中を分裂させ、憎み合うようにさせればいい。
殺しあうほどに分断してしまえばいい。
そうすれば、こちらに反抗してくる「力」が育たない。

実に巧妙で、しかも抜群の効果がある。
不思議なことに、あまり語られない。が、人類の歴史は「このやり方」によって紡がれて来たと言えるくらいでしょう。

大声で語られないのは、「今現在でも、今から先も、まだまだ使える貴重な支配方法」だからかも知れませんな。

ま、知られたくない人々が沢山おるんでしょうね。
「今現在進行中」とも言えるわけですし。


【少数の集団が大勢の人々を支配する方法】
【分断して憎み合わさせ、争わせる】
自分は、この「方法」が縄文時代の日本に中国から移入されたと考えています。
それが弥生という時代のバックボーン・原型、ひいては日本という国の原型になったのでしょう。


具体的には、被支配民の中に「格差」を創り出し、片方を優遇してやるだけでいい。

「君たちは白人(もしくは支配民)の仲間として扱ってやろう」
「我々の宗教に帰依すればもっと良い」

搾取する集団から隔離して、ついでに監督者にしてしまう。一石二鳥というかムダのない巧妙な手段ですな。

片方に選民意識と優越感を与え、もう片方を攻撃する動機を植え付ける。

そうして被支配者たちが戦闘を始めれば、もはや自分たちが支配されている事に気づかなくなり、反抗や反乱もなく首尾よく支配を完了できるわけですね。

数十年もすれば、その連中が色々な「民族」を形成します。他者との違いを明確にするために、「ありもしないモノを無理につくり出す」というわけ。

そうすると、自分が属する民族ではない者への「差別感情」が自然に身につく。最終的には「殺してもかまわない」という気持ちになるわけですな。

この間数十年。あるいはたったの数年。
ほんの短い期間で、人間はそういう選民意識を持つようになり、属性が異なる人々を差別し、命を奪っても何も感じなくなるのです。

そういう状況で、危機感を煽ってみせる。
「あの連中は、君たちを狙っている。力を合わせて奴らから身を守ろう」

疑心暗鬼から、たちまち虐殺に走るって寸法です。

これは、小学生ていどの学力があれば、「この100年の世界史」を眺めるだけで分かることです。

ところが、いい大人になっていながらこんな単純なことが分からない者達が沢山おるようで。
どうも困ったもんです。
「困ったもんです」で、すめばいいが・・・

見る角度によっては現在の日本民族も、霞ヶ関民族と、彼らに支配される一般日本民族に分化しようとしているのかも。



武士という武力集団は、反乱を抑えこみ民衆から巧妙に搾取する目的で「士農工商穢多非人」という身分制度をつくりだし、上に収奪される怒りを下への差別感情へ変換させるという、狡猾ながら非常に効果のある支配システムを生み出しましたけども、これが武家社会を明治までのおよそ1000年もの長きにわたって継続させた大きな因子でしょう。


アフリカの巨大湖に、それまで存在しなかったナイルパーチという魚がヒトの手によって持ち込まれました。その結果、従来の生態系が破壊され、ナイルパーチに食い尽くされた「昔からの住人」であった魚たちは絶滅状態に。

こうしたケースで、侵略者であるナイルパーチを憎むという人間が多いのが気になるところです。

常識的な知識を持つならば、ナイルパーチを持ち込んで繁殖させ、それで大いに儲けるヒトに責任があるのは明らか。

ナイルパーチが悪いと憎む程度の感覚では、これが現代の社会(もちろん日本も含む)へのアイロニーだとはとても気がつかないでしょう。

理性とは程遠く、何事にも感情が優先するからそうなるのか、保守性や利己性が過ぎるからか。

長々と書いておりますが、今の日本人のどれくらいの方が、こうした文章の真意を汲み取ってくれるのか。心細さと期待感が錯綜してしまうとこですね。





posted by 魚山人 at 06:14 | Comment(45) | 歴史雑感 | 更新情報をチェックする