2015年12月31日

不変

新年明けましておめでとうございます
これをお読みになった方の2016年が、良い年になりますように



アカの他人からこんな事を言われても

「オベンチャラいってんじゃねぇよ。誰だオマエ!!」
「胡散臭い奴だな。サギ師かよ!」

こんな感想をお持ちになる方がおそらく大半かと。
その事自体が、
何も信じられぬ今の「日本の病」の左証でありましょうか。

ただ単に、贔屓にしてくださる、あるいは偶然にしろ、この魚山人サイトにおいでになった人に対して、素直に「ありがとう」と思う気持ちすら、そんな単純な「情」ですら、通じなくなっているこのご時世。

やっかいな事ですな。

実際にサギ師だらけであり、他人を迂闊に信じようものなら、財産を身ぐるみ剥がされる。それが今のこの国。

違うと言うなら、世界に例の無い、あり得る筈がない、「オレオレ詐欺」とかいう稚拙・幼稚・悪質な特殊詐欺が、なんでいまだに蔓延しているのか、通用するのか、それを説明して頂きたいものです。

冠たる大企業は、改竄やら捏造、粉飾、の連発。
アレはいったいどうなっておるのか。

新型電化製品とかパソコンやスマートフォンに、「すぐにリソースを食い荒らし本体がぶっ壊れる様に作ったアプリ」を詰め込んでセット販売する【アコギな押し付け商法】はどうにかならんのか。

「とっても便利で操作もカンタン」
とかいって、実際は使いもしないどうでもいい機能でしかなく、操作も複雑。そりゃそうでしょう、「簡単に修理できない様にわざとイロイロ複雑に設計してある」んですからね。で、すぐに壊れる。

自分で修理できるようなシロモノじゃないから、メーカーに相談。
すると【新品に買い換えたほうがお得ですよ】という、最初からマニュアル化しておいたとしか思えない回答。

誰にとっての「便利」なんだかわかりゃしねぇ。

ま、「企業の儲け」を「お客の便利」とすり替えちゃってるんでしょう。そんな思考が当たり前みたいなっているから世の中に「詐欺臭」が蔓延する。

こういう事を繰り返していれば、「だんだんモノが売れなくなる」ということに何故気づかないんでしょうかね。バカでもなきゃいつまでも企業に騙されないでしょうに。

しかし、今の段階では粗大ゴミにしかならないと思える「孫さんのロボット」がバカ売れしている現状など見ると、消費者側の意識もどうなんだと思ってしまうんですがね。

食品添加物を売って巨大化した会社が「我が社は昔から健康食品一筋なんです」と言い出して恥じない「どの口で言ってんだアンタ?」(まぁこれはテーマが違うので省略)


魚山人的に言うなら、

「誰がこの国の詐欺・パクリ・捏造体質をリードしてるのか」
「東京オリンピックに関するドタバタと金銭感覚を見なよ」
「それで分からなきゃ、もう脳の病気だろ」



2020年の東京オリンピックはね、
【呪われた不名誉なオリンピック】にしかなり得ないと思います。

もちろん、アスリートにその責任があるわけじゃありません。

【2011年のケジメをつけないまま、「何か」から逃れるかのようにオリンピックに傾倒した日本国民の責任です】


ある人々は、責任を逃れる為に必死こいて大衆の目を他に向けさせようとする。それがタマタマ東京オリンピックだったと。

それを薄々感じながら、「それでも儲かるなら歓迎」
それが国民の答えでした。

「中央が儲かれば東北も自然に復興するのですよ」との、
無理やりな子供の理屈。

一般国民が儲かるなど勘違いもいいとこですが、考える事が出来なくなって久しい日本国民には、勘違いを勘違いと認識できる能力も消滅している。


そもそも3.11の前から財政は破綻必須の状態。
3.11の後に「復興の為に増税します」
で、ロクに復興もしないうちに「オリンピックで日本を元気に」
それが復興の妨げになるのは分かりきっているにも関わらず強行

復興などは忘れ果ててしまい、パクリだの気違い予算だのと。
それが今の状況。

忘れてないのは増税だけで、復興に加え消費税は10%に。

そもそも最初に消費税を導入した「福祉の財源に限定」という約束すら忘れているというか、最初から嘘というね(笑)

ま、怒りのレベルを超えてしまい、
もう「お笑い」としか言えませんのですが、
これを「変だ」と思わない国民が大勢いる事がなんともはや・・・

なんで「シンプル化」に向かわず混沌を加速させるんでしょうなぁ。




今年は2011年のアレから5年目になりますね。
早いものですなぁ。

この五年で、日本は何か大きく変わった気がします。
もちろん「変わってなんかいない」と言う人が多いのも承知。
自分が個人的に「変わった」と感じるだけのことです。

どう変わったのか。それは言わぬが花でしょう。
ただ、もう引き返す事はできないと思います。

『虎穴に入らずんば虎児を得ず』
方向転換が出来ないのであれば、先に進む他なし。

その「虎児」がどのような姿をしていようと。
それを得るために突き進む。

立ち止まり、熟慮し、徹底して話し合い、方向性を決める。そういう文明国として当然の事をしなかった以上、押し流されるがごとく先へ進むほかに道はないでしょう。


折り悪く、日本だけの問題とはいえないから始末が悪い。
複雑に絡む国際情勢も雲行きが怪しい。


【感情の世界への扉】
今の世界は、どうもその「扉」を開きかけているようです。

「水は低きに流れる」と申しますが、嫉妬・憎悪といったネガティブな感情の小川も、集合すれば大きな濁流となりやがて巨大な本流と化す。

近現代が築き上げた文明の英知とやらも、巨竜のように巨大化した洪水のような「蒙昧たる感情」の勢いにどこまで抗えることやら。

この濁流を止め得るものがあるとすれば、それは【世界を狭くした高度・高速化通信技術】になるでしょう。

しかしながら「世界中を飛び回る通信」も、その中身は知性よりも感情が勝りつつあるような気がします。

「憎悪がむき出しになって、それを制御できない」
そのような社会。
そこへ足を踏み入れているのであろうなぁ。
そう思います。

【腐った膿が消滅し、新陳代謝が起きる】
そのような奇跡を願う次第です。



ま、新年早々ウルセエ話はこれくらいにしときます。




さて、先日久し振りに書斎の大掃除をしました。
掃除というのはアレですな、
「いかに捨てるものを選び出すか、その選択である」
そんな感じになりますね。

自分にとっては「大事な思い出の品物」であってもね、
第三者にしてみればゴミ・ガラクタと同じです。

その第三者が親戚であろうが、たとえ配偶者や子や孫であったとしても、やはり「本人以外の者にはゴミでしかない」のですよ。


魔法使いや仙人みたいに1000年も一万年も生きられるのでしたら、幾らでも「思い出の品々(ガラクタ)」を増やし続け、溜め込み続けても構やしません。

しかし生憎と人間の寿命はまぁ70〜80年ですわな。
で、50歳も越えればボチボチと「死」を考える様になります。

「あの世」とか「重なった異次元」なんてモンがあるにしろ無いにしろ、いずれにしても向こう側から誰も来た事がないわけですから、【死んだら何も無い】とするのが常識でしょうな。


何が言いたいのかと申しますとね、
要するに「どんなに大事な物でも、あの世に持っていけない」
そういうことです。

死ぬギリギリまで固執するかの様にモノを増やし続ける。そうしますと自分の死後、周囲の者にガラクタを押し付けることになります。

ガラクタとはいえ相当な金額に換金可能な資産価値があれば別ですが、殆どの場合はそうでない品物ばかりでしょう。まあオークションなどに出せば売れる可能性があるにせよ、埒外であろう家人には余計な手間でしかないですし。

【死んだ後まで家人に迷惑を掛けるのはどうなのか】

先が見えるような年齢になれば、少しずつ身辺の整理を始める。
いかような品物であれ、「本人以外にはゴミでしかない」と諦念し、自分が元気である間に処分をしておくべし。

飛ぶ鳥跡を濁さず
死ねば終わり、消えゆくのが人の定
いかに執着しようが死者が生者の世界に関与するのは不可能
ならば静かに消え去るのみ

少々極端な考え方だと思いますけどね。なにしろおいらは、「葬式なし火葬のみで遺灰は海に、墓も不要」というのを希望しているくらいですから。まぁ現段階では「わがまま」とされて許してもらえないでしょうけどね。今後の段取り次第かも知れませんな。



『妄執果つる』
(これは確か寿行さんの小説のタイトル(の一部)だった筈)

死ぬとは、その人の妄執も消滅する事ですよ。
死に臨んでまで何らかの執着心を捨てられない。そういうのは情けない話だと思います。人生の最期は「妄執果つる時」でもありたいもの。



とまあ、そのようなことを考えつつ、ガラクタを整理しておりました。

すると奥の方から「写真アルバム」の山が・・・
「懐かしいなぁ〜」と座り込んで見入ってしまいます。
これで作業は完全に中断。

「でもだよ、この膨大なアルバムをどうすりゃいいのかね?」
「捨てられるもんじゃないですよこりゃ」
「デジタル化するにしても選別しなきゃ。全部は無理だし」

「だがやはり、特有の感情は《自分だけ》だろうなぁ」
「せめてパブリックとプライベートに分ける必要はあるかもね」

他者にとっても必要だと思われる、例えば何らかの資料たりえる写真と、自分個人にとっての思い出にしかなりえない写真。これを分けてしまい、後者は思い切って処分する。そうするしかないと思われます。


しかし、この分別作業は非常に難しいものになりそうな気が・・

「う〜ん、困ったモンだねこりゃ」

とか言いながら、古い順にアルバムをめくり続け。
ま、夢中になっていたんですな。

すると、店をオープンしたての頃の店内写真を発見。
約30年前、あるいは70年前(?)の写真ですな。

64864184.jpg

「そういえば最初はカウンターにネタケースがあったなあ」

ケースはすぐに取っ払ってしまったのですが、記念すべきオープンまでの経緯。あの時の事を忘れられるもんじゃありません。確かにネタケースがありました。

オープンしたばかりの自分の店に立つ20代のおいら。その男前ぶりを皆さんに見せられないのが悲しい(ノ_-。) ←老害






十年一昔といいます様に、もしもひとつの世代が10年だとしますと、3つの世代を我が店と共に越えてきた事になります。

しかし、「世代」というものの定義は曖昧なもの。
人々が好き勝手に「◯◯世代」と命名し、なんとなくそういう風に表記されているだけにすぎません。


たしかに世の中の変化は早く、たとえば携帯電話など30年前には存在もしていませんでした。(有ったとしても現在の一般的な小型実用機とは程遠いシロモノ)

でもね、逆に言うと「携帯・PCくらいしか変化はない」と。
ほかに何か大きく進化、あるいは変化したものがあるのか?

ありませんな。
インフラも街の風景も基本的に変化なし。

空中都市もなきゃ、エアカーも飛んでない。
地球の裏側へ1時間で行ける航空機もなけりゃ、とうぜん月や火星に旅行できる乗り物も無し。ナイナイづくしで、まったく進化してるとは思えません。

とくに「人間の中身」は、たったの一ミリすら変わってません。

「最近は◯◯◯な人間が増えたなあ」
こういうセリフはいつの時代でも言われたことで、今に始まったことではない。どんな世代でも悪い奴もいるし良い人もいる。嘘だと思う方は百年を1世代として歴史をつぶさに見ればよろしい。そうすれば千年単位で人間の本質が変わるものではないと気づくでしょう。

そこまで大袈裟にしなくとも、当時アイドルのポスターを部屋に貼り付けていた若者たちと、今ナントカという集団アイドルを追っかけている者達の違いなど本質的には「まるでゼロ」だと、少し考えれば分かることです。



「変化の激しい時代だよ」
「うかうかしていれば競争から脱落する」

「だから常に時代を読み、革新を続けなきゃ」
「新しい世代を切り開くつもりで突き進むしかないんだ」

おそらく、こうした言葉に異論のある現代人はいないでしょう。今ではもう「常識以前」であって、全ての人が当たり前だと思う意見ですね。

しかしおいらは「少しおかしい」と思います。

まず、上のような「お題目」は何十年も前から言われ続けているのであり、今に始まったことではないということ。

何十年も念仏にように唱えられて来たが、【何も変わっていない】という事実がある。

「そりゃないよ。すごく変わっただろう。進化も凄いし」

それなら、どう進化して何が大きく変わったのか具体的に教えて欲しいもんです。

1970年代と2010年代のね「本質的な違い」を教えて貰いたい。

政治、経済、行政、街並、公共インフラ、教育、文化
そして「人間の中身」

何か変わりましたか?

表面的には多少変わったでしょう。それは認めます。
しかし「根本の部分」から変わったものは何もないと思いますがね。

エネルギーは石油のままだし、電気の用い方も同じ。
大きな変革はまったくなし。



「新しいモノ好き」という言葉があります。
これは人の本能に根ざす性質ですから、誰にでも当て嵌る。
自分もそうした傾向があります。

しかし、あるキーワードによって常軌を逸している気がします。
そのキーワードは【テクノロジー】

この単語がまるで呪文のようになっている。
そして誰も彼もその呪縛にがんじがらめ。

テクノロジーの進歩を崇拝する宗教みたいにね。

なぜ呪文なのか。
本当はたいした進歩でもないからですよ。
一年前の型と最新型の違いなんぞ殆どなにもない。

例えばiPhone。新型と旧型の違いはなんです。
行列まで作って買うほど「新しい」のですかな?


この「宗教」の特徴は、新しいテクノロジーに置いて行かれるのを極度に恐れるという部分。もう「新しい物好き」というより「強迫観念症」のようなある種の病気に近い。

本当に新しいのどうか中身を検証する事もせず、企業の言葉に飛び乗り新型というだけで買ってしまう。甚だしいケースでは旧型の方が明らかに高性能で使いやすいという事実を無視してまで新型を欲しがる。



簡単にいえば「テクノロジーという言葉」だけに踊らされていると。

冷静に考えれば技術のブレイクスルー(たとえばジョブズがiPhoneを発表したような)なんてものは十年二十年に1回あるくらいのものです。
まあ「一つの世代に1回」あるかないかでしょう。

にも関わらず、毎年のようにテクノロジーが刷新されているような気になり、焦りに似た感覚で飛びつこうとする。

IT関連のCMなどを見ておりますと、1分たらずの間に妙ちくりんな横文字を何十個も挿入して話す人物が。
日本語に変換できる用語もあるのに、聞き慣れないカタカナIT用語を至極当然という顔でペラペラ。

日本語を話せよバカヤロウと思うんですが、ふと気づきます。
「これも呪文のひとつだね」
「信者に対して強迫観念、あるいは優越感を植え付ける」
「新たな信者の開拓でもあるんだろう」
「まぁ、煽っているんだろうな」



【中身の検証】(本当に新しいのか。優れているのか)
【その機能の必要性】(自分にとって本当に必要なモノか)

このふたつをなおざりにしたままテクノロジーという言葉に振り回される。

これはなにもテクノロジーに限った話ではありません。
右をみても左をみてもという具合に、あらゆる事象にあてはまる。

「中身を真剣に確認はしない」
「それが何で必要なのかも深く考えない」
で、雰囲気に流され周囲に煽られ、手に入れようとする。

なんでそうなるのか。
自分がどうしたいのか自分で分かっていないからです。
【自分が無い】ということですな。

流行に遅れまい
最新のテクノロジーを使いこなす
「それがカッコいいし、それが自分だよ」
「どこが自分が無いんだよ馬鹿。充分カッコいいだろオレ」

分かっておりませんな。
他人の船に便乗するだけで、自分の船を持っていない者のどこがカッコいいというのか。
軽薄で中身に乏しい「流行」とやらを八方美人的に追うのに全力を使い、心の余裕を失う者よりも、自分の専門を絞り込んで深めていく者の方がカッコいいのだと気づかないのは笑止。

何をどう考えても「自分のやるべきを事を知っており、それを極める努力を怠らない」者の方が、「知った気になるばかりで何も知らぬ、つまり自分を知らない」者よりも格好良いのは当然でしょうに。




新しい年を迎え、仕事をお持ちの方もそうでない方も「今年を良い一年にしたい」と願っていると思います。人の心情として当たり前のことですよ。

その中には「新しいものを切望」している人も少なくはないでしょう。
今年こそは新たな企画を生み出して成功させたいという気持ち。
それが切実であるというか切羽詰まった思いという方もいるはず。

あるいは「新世代の扉を開くくらいのヒットを放ちたい」と思っているかも知れません。

おいらは「だから失敗する」と思うんですよ。

逆に考えてみてはどうでしょうか?

「新しさ」ではなく、「世代は変化しない」という前提で何かを企画してみるのです。

「もしかしたら流行に背を向けたほうが良いのでは?」
そういう発想の転換です。

消費者に「自分を失わさせることで、暗示をかけるようにモノを売りつける」のではなく、「自分を発見する方がイケている」と提案できるような売り方をする。

難しくはない。
世代を超越して生き残るのは簡単なんですよ。

いつの時代でも人々が支持するもの。
それは【ストレスを感じないモノやサービス】です。

今は企画する者までが、「複雑であっても機能が多い方が良いのだ」という「テクノロジー呪文」に呪縛されている時代。

なので、使う者(消費者)の負担はあまり考慮されていない。

【ユーザーの利便性が何よりも優先されるべき】
この当たり前のことが、今ほど「口先だけで実際は無視されている」時代はないと思います。


一昨年だったか、ある地方の自治体から依頼というか招待というか、まあ仕事絡みで呼ばれた事がありました。人口数万人程度の小さな街。

役所の方と色々話してみると、やはり少子化が深刻だと。人口の自然減はある程度織り込んでいるが、予想外に若者の減少が速いと嘆く。

「努力はしているんですよ」
「県や国にも助けてもらいながら、やれる事はしている」
「なんとか子供を増やそうと頑張っているんです」

実はおいらね、
30年以上前その街に暫く滞在したことがありました。

で、
「昔ここには大きな遊園施設がありましたが、無くなってますね」

妙に立派な建物(たぶん補助金などを使ったハコ)は目立つが、子供が楽しめそうなモンは何も無いんですよ。ざっと街を回ってみてもね。

子供が少なくなったから遊園地は採算が合わず撤退したのでしょうが、それなら何故「補助金」とやらで支えてやらないのか?

子供たちが楽しく過ごせる場所を潰して、老人のたまり場にしかならぬ様なそっけない建物ばかり造るのはどうしてか?

子供らを締め出すような「公共」しかやっていないのに、なんで「子供を増やす努力をしている」と言うんだろう?



「言葉と行動の乖離」ですな。

どうしてこう「口先だけ」になってしまうのか。

自分がやっている仕事を優先させ(あるいは正当性を与え)ることに夢中になってしまい、「ユーザーの存在を忘れる」からです。

「ユーザーありき」ではなく、
「まず自分(仕事や組織)ありき」



大多数の人々が求めていることは一つですよ。
【単純で分かりやすくて楽しい】

なのに、ヒットを狙う連中にかぎって「分かりにくいガラクタを押し売りしようとする」わけです。
ヒットが出せないと悟れば、今度は付加価値だと抜かしてしょうもないゴミをてんこ盛りにしパッケージ売り。「早く壊れて再購入してくれないかな」というアリサマ。なにが付加価値だよ、ボンクラか。



本当に良い企画を立ち上げようと思うのでしたら、一度「常識」というのを疑ってみるべきではないでしょうか。
馬鹿のような流行に右往左往するのをやめてみるのです。

「自分がこうやりたいから」の前に、「相手側が望んでいること」を優先するだけのことです。


時代が、世の中が、世相が悪い方向に流れていようが、それはソレ。
我々は黙々と「自分が出来ることをやっていく」のみです。

よく目を凝らしてみると実は何も変わっていないし、【変わらないものにこそ本当の価値がある】のではないでしょうか。


ユーザー、消費者、それに子供たち。
この方々というのはね、【自分自身】でもあるわけです。

つまりこの方々を嬉しがらせるということは、自分を喜ばせるのと同じなんですよ。

自分を失ったままの「自分喪失状態」では、本当の自分が何に対して嬉しがるのかも分からんでしょう。それでは他人の真意も読めない。何が本当に楽しいのか理解などできるわけがない。

まずは自分自身を確立するか、取り戻してみる。
それではじめて「他人が喜ぶもの」が見えてくるでしょう。


どんな世でも不変であるもの
不変でなければいけないもの
それは【自然に出る笑顔】だと思うんですよ。

人をそんな笑顔にさせるのは「シンプルな楽しさ」ではないでしょうかね。

posted by 魚山人 at 17:17 | Comment(42) | この国のカタチ | 更新情報をチェックする